United Alternatives Lives

ABOUT US

目的&意義

発達障害児、不登校児、フリースクールが増加している。
文部科学省の調査によれば、2023年度(令和5年度)の不登校児童生徒数は
小学生:81,498人(全体の1.30%),中学生:163,442人(5.00%)であり、毎年増加傾向にある。
こどもたちの声なき声を拾い上げる、見守る(信じる)、体力をつけ忍耐力をつける、
旬なその土地の食を食べる、そう体験する。
そして、外交を通じて、取捨選択し、個と公として自然と一丸に成って行くことを目指す。

情熱・関心

世界、社会、家族の中には必ず皆、各々の役割がある。

未来に今、出来ることは、嘘をあばくのではなく、今世代の自分、我々が信じた道をやるのみ。
こんな想いはあたかも、時に幼い自分を救っているようにも思える。

ストーリー

「足りない補い、不得意を得意とし、人並みにしたあげようとする」僕が感じた日本教育
は窮屈で「強育」に感じていた。長らく他にオプションがあることさえ知らなかった、
ある時までは。
とうとう、16歳手前で日本を単独脱出、そして初日にスポーツで尊敬され、
称えられ、僕の身に置いた日本では認められなかった、あるがままの自分が認めたれた。
とってもあっけなかった。同時に、他の何処でも認められるか知りたいと、別の夢、目的が生まれ、そして、様々な土地、国に住んだ24年間。

その24年の中で出会った、「世を良くして行く!」と音楽と叫ぶ、何も持たない
セネガル難民。襲撃的であった、誇り高い名も無い音楽家たちの「何か」、
人として誇り高いもの、を持ち帰ることが出来さえすれば!と19歳で出会った、
仕える事、仕事。
試行錯誤する中、音楽でない様々なアートを餌に、その「何か」を分かち合いたくて。
そして出会った12世紀から強制的に奪われた言葉を「取り戻そう」とする
バスクとの出会い。
バスクでは、言葉を取り戻そうと、民の中から生まれた政治、そしてアート。
言葉とはその土地の先人たちが工夫して創り上げた文化であり、
その土地のアイデンティティであり、正に、誇りだ。
21世紀、バスクではバスク語が第一語源に成り、全学校でバスク語授業に成り、
バスクははバスク語を取り戻した。

そんなバスク人たちとバスクで暮らし得た知恵が、「身近なN.C.F.の大切さ。」

声なき声が聞こえる、近代の日本の子どもたち。それは、僕に
「あるがままに、自分を堂々と生きたい!」とでも、また13〜4歳で両親に言っていた
「しゃいを克服したい!」という僕の言葉のようにも聞こえてる。

アートを餌に社会の見方を変える切っ掛け創りを30年弱してきた自分の今、
出来る、やりたい、役目。日本が日本の本当の誇り、先人や、その土台である自然への
経緯、感謝、それらに関わる祭りや、倫理観、生き方を取り戻した時、
各々はもちろん、日本にも、そして世界に貢献出来る唯一無二の日本になるはずだ!
答えは既に我々は持っている。
一度、「自分の外に出る」経験をしてみないか!!

多くの我々、大人たちはその答えを既に知っている。
明治維新、GHQの仕業だ、寺や和言葉、どぶろく、そして米や水。
考えだけをシェアーするの大人は多い。それらを暴くだけでなく、考えをどうにか形にする。
その形がアートと外交という、「自分の外に出る」切っ掛けでもあり、
それらの体験を創るのが、我々UALの活動・役目である。
未来世代は今世代の我々、
あなたが必要である!

問いかけ

見知らぬ孫世代に大きな笑みを溢す老人の様に、
自分を堂々と生きる姿は、どこか誇らしく、素直に気持ちが良い。

そんな我々に成れるようにと、一人でも、誰とでも、そして
あなたと活動していきたい!

現状

UALの軸の中にある「身近」という言葉。
身近は、一つに「近く」であったり、「アクセスが良い」、「遭いやすい」など、
そして、UAL企画のイベントや祭り、オルタナティブ スクールや合宿・旅は「投げ銭」であったり、極力高価でないように設定されている、そんな身近もある。
理想と現実、チャレンジばかりではある、この30年弱。
30年以上、軸をブレず、しかし言葉には出来ずもがき、しかし、
辞めずに続けているのは好き以上な何かがある。意地だけでは決してない、そこには何か必要性とでも言える、好き以上な、愛しかない!

簡単な履歴

アートの力が政治や経済の力同様であり、そして
アートが政治や経済より自由だったことをバスクで体感、体験した。

政治とアートで言葉を取り戻したバスク。そしてその政治とアートが産まれた影響を大いに持つ、バスクの環境。そんな歴史の中をその土地で、そこの人々と暮らした経験。

また、UAL代表は(BasQuingとしてその時代活動)バスクをアートを餌に日本に広めた
立役者でもある。
2009年29万人の日本人観光客がスペインを訪れた。しかし、自分が愛したバスクに
はその1%も来ていない現状があった。(スペイン観光協会 Turespaña , 国立統計研究所 instituto nacional de estadística / 国際観光客到着数 Frontur 2019)
「外に出る切っ掛け」創りを様々なアートで活動していた頃だった。
一緒に活動する様々なバスクのアーティスト(料理人、画家、イラストレーター、
映画監督、音楽家など)を日本に紹介すれば、魅力あるバスクが紹介でき、
日本を出る切っ掛けに成る、と考えた。仲間、統計はある。
コネも何もない日本へ、そしてメディアへ営業し、様々ななメディア、雑誌でバスクが紹介
された。
「アート・文化の力が、観光の力に、そしてそれは各々の力に!」と掲げた。
3年後にはバスクは誰も一度は耳にしたことのある場所となった。美食倶楽部、
チーズケーキ、世界一の魚介スープ、ベレー帽、独立や自由。。。
バスクの日本人観光客は年々増加している。
在日本スペイン大使館観光参事官、スペイン政府観光局局長によれば、
「2万4000人の日本人観光客がバスクを訪れた。」